■ストーリー

"できない"を"できる"にする


そもそも最初のスタート自体が大変でした。

当時サラリーマンの私はテレビでF1を見ていました。長男がそれを見たときに「これにのりたい。」と言ってきたことが始まりです。モータースポーツはお金がかかるスポーツで、それをさせてやれる余裕もなかったのです。「そんなん無理やって・・」と最初は言いましたが、若干4歳という年齢の子供に、やる前から無理なんて教えてどうするんだ?とハッとしました。

やってみて無理かどうかを判断すればいい。そう思ってカートスクールを探し、体験と実習を経てついに自分たちのカートを買うに至りました。

最初は中古のカートで、13万円で購入しました。妻に頼み込み、家の貯金からお金を出して購入し、貯金の13万円はコツコツと返済していきました。

同じタイミングで当事業のULTIMO HANDMADE MARKETでの木工作品の販売が伸び始め、昼はサラリーマン、夜は木工活動というスタイルになりました。でも全く辛くはなく趣味をしながらお金を稼げるという感覚でした。そして3カ月程度で返済を完了することができました。この時から「"できない"を"できる"にする」というコンセプトが始まったように思えます。


ドライビングの基礎を作ったキッズカート


マシンを購入した後は、装備なども揃え毎週末練習に行くようにしました。当時在籍していたケイズガレージには同世代のドライバーがたくさんいたので、みんなと切磋琢磨し、運転の基礎の荷重移動やブレーキング、バトルの練習などをして練習に励んでいました。

そしてキッズカートのレースにも参戦をし、初めてのレースではトップから2周遅れという結果でしたが、練習とレースを重ねるうちに入賞や表彰台に乗るという事も経験できるようになりました。

弟もこのあたりから兄に刺激され少しずつキッズカートを乗るようになっていきました。


カデットクラスへのステップアップ


キッズカートをやって約3年と少しが経った頃、違うクラスでレースをされてる方から「カデットにステップアップしてみませんか?」と声をかけていただきました。キッズカートのドライビングも定着し、本当のカートの技術はカデットクラスから鍛えられると教えていただき、迷いはしましたが、その方が余っているカデットのマシンを譲ってくれてカデットの練習をしていくことを決断しました。

カデットというクラスは40ccのキッズカートのエンジンとは違いYAMAHA KT100エンジンを使用するカテゴリーでマシンもキッズに比べて大きくなるクラスです。


垣江監督との出会い


カデットにステップアップしてからは垣江監督が指導してくれるようになり、約1年を「感性を鍛える」というテーマで練習に取り組み始めました。

垣江監督は過去に世界戦を戦ったり、サーキットのレコードホルダーになるなど、スーパードライバーの1面も持ちながら最高のメカニックの技術も持ち合わせています。

本格的にカートに乗った本人にしかわからない目線での指導は、若干小学校低学年のドライバーにも、吸収できるみたいで、熱心に監督の話を聞いています。

私はメカニックとマネージメントの指導を受け、颯大はドライバーとしての指導を受けています。


トラブルとの闘い


もともとマシンのメカニックなどやったことのない私でも、カート活動を続けるうちにマシンを触れるようにはなっていきました。しかし思わぬ悲劇が発生します。

弟の琉世は2021年8月にキッズカートの全国大会に挑戦しました。その1週間前のレースでフレームが3か所折れるという事象が発生しました。中古で長く使ったフレームもいよいよ限界を迎え、40℃を越える灼熱のレースに参戦しました。

前日練習ではスプロケットが折れ、チェーンが外れる、エンジンマウントが安定しないなどの事象が起こり、やっとクリアできたと思ったレース当日は電気系のトラブルで公式練習、タイムトライアル、リタイアとまともに走ることさえ、できない状況でした。


キッズカート卒業へ


長い時期を支えてくれて最後のレースを終えたマシン
長い時期を支えてくれて最後のレースを終えたマシン

総勢26台のキッズカート全国大会の決勝は完走できるかとの勝負になっていました。中盤コースアウトしそうな危険なシーンもあり、2年前に兄の颯大がリタイアした過去もよぎる中、琉世はチェッカーを受けピットロードに戻ってきてくれました。

琉世を迎えに行こうとピットロードを走る私は、申し訳なさと、完走してくれた感謝と、プレッシャーからの解放で勝手に涙が出てきました。7歳の子供が大きな仕事をしてくれたという感動は今でも忘れません。

そして兄とあわせてキッズカート活動を支えてくれたマシンにも最後まで持ちこたえてくれて本当に感謝しています。

約4年の活動を終えて、私たちのキッズカートはこれで終了で、マシンも解体となります。

弟の琉世もカデットクラスへのステップアップとなります。


カート活動の休止


2021年の9月以降も颯大はレースに出場し、琉世は琵琶湖スポーツランドにてカデットの練習を重ねました。

しかし、2022年の年明けに先々の活動資金に陰りが見えたことにより、突如カート活動を休止する事態に見舞われました。

キッズカートから約5年、練習を重ね、レースに出てと続けてきましたが、2022年1月の練習を最後に、しばらくカートに乗れない状況になりました。

最後の練習でチェッカーが振られた後、ピットに戻ってきた颯大を見て、僕は申し訳なさと情けなさと寂しさを隠すことができず、目頭が熱くなりました。

いつ復帰できるかわからないですが、この時は二度とこんな経験はしたくないと強く感じたことも印象に残っています。

「いつか絶対に戻ってくる」という気持ちを持って2台のマシンを引き上げて帰路につきました。


ランニングトレーニングの強化


カート活動を休止する間も監督からは「体力を落とすことなく、ランニングは続けなさい」とのアドバイスをいただき、ランニングに力を注ぎまし。

もともと近所を走るトレーニングをしていたので、小学校4年の颯大、1年生の琉世ともに5kmを走る体力はありました。引き続きランニングを続けて、いつカート活動に復帰してもしんどくない体力作りに専念しました。

ある程度の距離を走れることができるんだなと感じていたので、一度マラソン大会みたいなものに出たらどうなるんだろう?と思い、調べてみると地元の長岡京で「ガラシャロードレース」というオンラインマラソンがあることを知りました。練習を重ね、5kmにエントリーしました。タイム的にも25分台で走れたので、より大きな大会に出てみようと思い、2022年3月に「なにわ淀川マラソン」が開催されることを知りました。

そこから河川敷でランニングの練習を開始しました。河川敷は街中に比べ風が強く、視界が開けて自分のスピードが速いのか遅いのかわからない錯覚に陥り、なかなか難しいコースであることを知りました。

数回練習するうちに、それにも慣れてきて、レース前週には実際のコースをはしりに南方へ練習にいきました。


なにわ淀川マラソン大会への出場


2022年3月26日「なにわ淀川マラソン2022」が南方の淀川河川敷公園にて開催されました。

1年に数回開催される人気のマラソン大会で当日は朝から多くの人が来られてました。マラソン大会に出るのは初めてだったので、すごく新鮮な気持ちと、レーシングカートとはまた違った会場の雰囲気が非常に良かったのを覚えています。

レースは朝の8:40分にスタートしました。颯大と琉世は6歳から13歳の部のエントリーで14名程のランナーがいたと思います。

大人も子供も一緒に5kmにエントリーしているランナーが走り、みんな自分のペースを作り走っていました。2.5kmの折り返し後はゴールに向け残りの体力を振り絞ります。ゴール間近になると、大人も子供も必死に競り合ってる相手に負けまいとラストスパートをかけて最後の根性勝負みたいな光景でした。

僕たちは練習を課せ寝て上位を目指しましたがクラス内では7、8位で2人はゴールしました。

レーシングカートのレースではないですが、ランニングはランニングで貴重な経験ができたと感じた大会でした。


フェスティカ瑞浪での復帰戦


レーシングカートを休息した期間、仕事を頑張り、とても忙しい3月、4月を過ごしました。

活動資金に少しゆとりができたので2022年5月15日「フェスティカサーキット瑞浪第3戦」にエントリーをしました。約2、3ヵ月のブランクはあったものの、ドライバー自体は衰えておらず前日練習では13台のエントリーの中12番手のタイムでしたが、レース当日、フレッシュタイヤを履いて全体の2番手のタイムをマークしました。

復帰戦で表彰台が見えている状態でした。

しかし、迎えた決勝スタートで出遅れポジションを落としてしまいますが、周回を重ねるごとにラップを上げていく予定が6週目あたりに急にペースがどんどん落ちていきます。次々と敵車にパスされて気づけば最後尾で、更に離されて行きます。原因がわからずチェッカーを受けてピットに帰ってくると右フロントタイヤのベアリングが走行中に破裂し、カラーなどがシャフトに焼き付いている状態でした。

スタートの技術とメカニカルトラブルに課題を残し、復帰戦は苦いレースとなりました。